キャンディ番外編:テレフォン

 マスターベーションをしてください。
 電話越しに三上志津香がそう告げたとき、白沢朝木は意外なくらいに動揺した。
 いつでもお偉そうな白沢組三代目組長だ。スーツも和装もよく似合う、ぴしりと背筋の伸びた色男がこの反応かとつい密かに笑ってしまう。
 男を色で落としてやるのが趣味だと朝木はいつか言っていた。暇つぶしの方法なのだとなまめかしく笑った。確かに彼は二度ばかりそのような態度をみせはした。しかし、実際のところは本人が思うより彼は純粋なのだろう。
 年下の組対刑事を志津香ちゃんとからかうこの男は、たぶんそこそこ、その志津香ちゃんを気に入っているに違いない。だから、この反応なのだ。
 彼にとってはいま自分との性的接触は、趣味なだけでもただの暇つぶしでもない。
「マスターベーションをしてください。いますぐ。それで、僕にいい声を聞かせて」
 わざとらしく誘惑の声で告げてやると、しばらくの間のあと低い声が返ってきた。
『おまえは変態なのか? そんなことできるかよ』
「できないなら手伝ってあげましょう。ねえあなた、いまどこにいるんですか」
 ごくりと喉を鳴らす音が聞こえてきた。まるでこんなことには慣れていませんとでもいうかのような様子が伝わってきて、また小さく笑ってしまう。
 あの日いきなり目の前にひざまずき唇を使った男だ。またあの夜には器用に布団へ自分を引きずり込んだ男だ。それなのに、いまは、これだ。そう思うと、ぞくぞくと興奮がこみあげてくる。
 可愛い。と言ってやれば朝木は鼻で笑うか呆れるかするだろう。だが、可愛い。
 夜も一時をすぎている。寝床に潜っていたという返答を受け、長襦袢をはだけろと指示すると、朝木はこう文句を言いながらも従った。
『……悪趣味だ』
 罠にかかった獲物の負け惜しみのようで、これもまた可愛いと思う。
 乳首に触ってみてください、優しく擦ってください、わざと甘ったるく囁いた。朝木は言われる通りにしているのだろう、喘ぐ声は徐々に艶を増しもう逆らう言葉も聞こえてこない。
 どんなときであれ周囲に余裕を見せつけている男が、自分の声だけで乱れている。あの気位の高い三代目組長が携帯電話を握りしめて身もだえている。その姿を想像したら、身体に仄かな火がついた。
 そこそこ気に入っているというよりも、朝木は、片足くらいは自分にはまっているのではないか。
「気持ちいいんですね。興奮してきたでしょう? 舐めて、吸ってほしい?」
 快い声を聞きながら、わざとらしく耳元へ吹き込むように問う。朝木はもう動揺も忘れたのか素直に掠れた声で答えた。
『ほしい……、舐めて、吸ってほしい……っ。はあっ、志津香、はやく、してくれ』
「いいですよ。自分の手でしてみてください、気持ちいいように。いまあなたに触れているのは、僕です。あなたの乳首を、舐めて、吸ってあげる」
 ゆっくりとそう言ってやると、朝木は、たまらないとでもいうかのように高く喘いだ。隣の部屋に秘書がいると言っていたのは彼だったが、そんなことはとうに頭から飛んでいるのだろう。
 足りない、もっと、早く噛んで、携帯電話から聞こえてくる淫らな声に満足した。
 噛んであげます、感じて、いやらしく鳴いて、囁きを返しながら仄かだった火が次第に強くなるのを感じていた。
 初めて取調室で会ったときの朝木の印象を、一言で表現するのは難しい。
 強い男に見えた。誰にも屈せず、誰からも潰されない。カリスマ性があるといえばいいか、彼は多くの他人を動かす場にいるべき人間なのだろうと思った。
 と同時に、小さなひびのようなものも感じた。
 この世のすべてはゲームだといわんばかりの態度を取るのに、彼からはどこか張りつめた雰囲気を感じた。息苦しそうにも見える。ひとの上に立つべく生まれ育った男の孤独だったのか、何事にも本気になれないがゆえの錆みたいなものだったのか。
 朝木に自覚はないだろう。しかし、美しい横顔にそういった僅かな翳が見えてしまった。だから、気になった。正体を暴いてみたい、そんな欲が湧いた。
 彼の唇を拒まなかったのも、セックスに誘われて最終的には乗ったのも、そのせいだと思う。でなければどんなに見目麗しい男でも、拒否をする。
 行為の際、朝木は快楽に酔う素の顔をしていた。おそらくはあのとき彼は背負う重荷を忘れていたし、そう指摘したらうろたえた。はじめて見る表情だった。
 決して弱いのではない。ただ、自分の発した言葉は確かに、彼のこころのやわかい部分を突いたのだろう。
 そんな姿を見てしまえば、最後までむき出しにさせてやりたくもなる。そして、こうも思う。素の顔を見せるのならば、そのときは自分の隣にいればいい。
 これでは、片足はまっているのは自分のほうかと、つい苦笑が洩れた。
「どうしよう。ねえ朝木さん。あなたの声を聞いていたら興奮してきました。僕も一緒に、こっちでしていい?」
 わざと熱を込めた口調で訊いた。はあはあと息を乱しながら懸命に言葉を返してくる朝木を、可愛いなともう何度目になるのか思った。
『おまえ、も、しろよ……っ。早く、やれ……!』
「想像してくださいよ、僕がペニスを勃たせて擦っているところを、僕のペニスを思い出して、想像して。僕もいまあなたが一生懸命自分でしているところを想像してます」
 片手でベルトを緩め、掴み出した性器はいつのまにかきっちり勃っていた。こんなお遊びでこうも興奮するなんてガキみたいだとまたひとり苦笑する。
 だが、悪くない。
 王様の椅子に座った男を引きずり下ろし、声だけで熱を交わらせる。いま彼はあの夜見たように欲で瞳を濡らした素の顔をしているのだろう。そう思ったらますます高ぶった。
 勃ってる、触りたい、入れてほしい、うわずった声での哀願に、不意の甘い感情が湧き出してきた。
 愛おしい。抱きしめてやりたい。思う存分貫きたい。などと考えてしまう時点で、自分はもう彼に片足はずっぷりはまっているのだと自覚せざるをえない。
 だが、それも、悪くない。
『頼む、からっ、いかせてくれ、いかせて……っ、ああ、むりだ、許せ……っ』
 時間をかけて散々焦らしてやると、朝木は震える声で言った。この瞬間に彼は生身だ、自分だけが知る彼であり、そして自分のものなのだ。そう思ったらぞくりと抑えきれない欲情がこみあげてきた。
 答える声には当然それは透けていただろう。
「ほんとうにいやらしいですね。わかりました、いいですよ。一緒にいきましょうか。僕の名前を呼んで」
『あ……ッ、いく、志津香、しづ、か……!』
「たくさん出してください」
 囁いてやると、回線の向こうで朝木が一瞬息を詰めた。ひとりきりで彼が達しているのだとわかる。それに同調でもするみたいに快楽の波が押し寄せてきたので、特には抗わずのまれた。
『ああ……ッ! あ、あ……ッ、いってる。出て、る』
「僕も、出てます」
 電話越しの、単純な自慰行為のはずだった。しかしそれは知らないくらいに濃く深いよろこびを連れてきた。
 彼がこうして一瞬開放される場所に、なってあげられたら、どうだろう。
しばらく朝木の荒い呼吸音を聞き、思うままに口説く言葉をいくつか使った。それから「ゆっくり眠ってください」と言い残して通話を切る。
 ひとりきりの部屋で、ふ、と短い吐息が洩れた。慣れた欲のにおいを感じ、それから朝木の香りが不意に蘇る。
 携帯電話を放り出してその場で服を脱ぎ、全裸になってバスルームへ向かった。暖房がきいているはずなのに、なぜか少し寒いなと思った。
 一度知ったぬくもりは肌に記憶されてしまう。あの夜抱きしめた朝木の身体は、切なくなるほどあたたかかった。