義兄弟番外編:あたたかな部屋

 このまま彼を、この部屋に閉じ込めておいていいのか。いつからか不意の瞬間に怜はそんなことを思うようになった。
 聖司をこの部屋に連れてきて以来もうどれほど経ったのだろう。内側からは決して開かない鍵を取り外してからもずいぶんと時間がすぎた。それなのに聖司は逃げようとはしない。朝起きて怜を見送り、急ぎ帰れば必ずそこにいる。
 春の雨に打たれながら、逃げないと彼は言った。その通りいつでも自分を待っている彼の姿を確認するたびによろこびがこみ上げ、同時になぜか胸が痛くなる。
 いまの彼はほんとうにしあわせなのだろうか。

 その日の夕食は、怜がはじめて聖司のために作ったメニューと同じものになった。聖司がふと、あのときのメシが食べたいな、と言ったからだ。ミネストローネ、サラダ、生ハムとアボガドの冷製パスタ。ふたり並んでキッチンに立ちのんびりと食事を用意して、皿をダイニングテーブルに並べる。
 シロのために缶詰を開けてから向かいあって椅子に座った。聖司は目の前の料理を見つめて少しくすぐったそうに笑った。
「ああ、なんだか妙に懐かしいな。いただきます」
 懐かしい、か。
 あのときの聖司はそれこそ腹を空かした子猫みたいにがつがつとミネストローネに食らいついていたが、今夜はじっくりと食事を味わっている様子だった。満足そうな表情が嬉しい。そして、やはりどうしても胸が痛い。
 こんなふうに感じるようになったのは最近になってからだった。嬉しい、しあわせだ、だがこの男にとってはどうなのか。とにかく手に入れることしか、彼に愛されたいとそれだけしか考えていなかったころには感じなかった疑問が、泡のようにふつふつと浮かんでくる。
 愛している、放さないと囁きあっても、洗脳のようなものでしかないのかもしれない。
「兄さん。外に出たい?」
 瞼や頬にかかる、ずいぶんと伸びた聖司の黒髪を眺めながら問うた。きょとんと見つめられてつい苦笑する。
 これは、罪悪感だろうか。
「髪を切ったり、外食したり、映画を観たりしたい? 散歩をしたり、買い物をしたり、夜遊びをしたり」
 聖司はしばらく困ったような顔をしてから、小さく笑った。
「おまえがいやがるだろうから別にいい。髪なんかもっと伸びたら縛ればいいし、この部屋で食べる食事は旨いし、映画なら借りてくればいい」
「不満じゃないの? 外はお日様が眩しいよ。月も綺麗だ。他のひとと話もできる、好きなお店に入れる。自由だよ」
「おれはいまだって不自由してない。おまえがいればそれでいい」
 聖司の言葉に息苦しさを覚えた。
 いまこの男はほんとうにそう思っているのだろう。そう思って、いるのだろうか?
 次から次に浮かび上がってくる泡が消えない。
「なにが不安なんだ?」
 だから、同じタイミングで食事を終えた聖司が言ったそのセリフに、まるで内心を読まれたようだと思わずどきりとした。
 そうだ。こんなにもしあわせで、こんなにも充ち足りていて、なのに湧き出してくる疑問の泡は確かに不安と呼ぶべきものだろう。なぜそれを追い払えないのかは知っている。ふたりの関係が、あまりに歪んでいるからだ。
 蜜月がすぎればこの男は我に返るのかもしれない。いびつさを直視し、理解し、嫌悪し、そしていつか逃げるのかもしれない。
 甘い空間、甘い時間がしあわせすぎて怖いと思う。
「……幸福だから不安だよ」
 素直に怜が零すと、聖司は穏やかに笑った。子どものころにずっと見ていたものと同じような、まったく違うような優しい表情だった。
 彼はある部分においてはむかしと変わっていない。そして、ある部分においては、大きく変わった。
「変なやつだな。いつでも自信たっぷりなのにおかしなところで怖がりだ」
「なにかを手に入れると、失う不安って誰にでもあるでしょう?」
「おまえはおれを失わない。たとえ手放したくなってもおれは離れない。覚悟しろよ。いまさらおれが、いつだかおまえが言ったような清く正しい兄さんに戻るなんて思うな」
 不意に、くらりと目眩を覚えた。
 この男は覚悟をしているのだろう。このひずみなどはっきり見えている。見えたうえで、彼はそれでもここにいる。
 禁忌だ、あの日、雨の中そう言った彼はすでにそんなものは受け入れている。
「……わかった。じゃあ僕は兄さんを閉じ込めておくから、一生そばに居るから、兄さんも覚悟して。僕はね、兄さん以外のものなんてなにもいらないんだよ。なにも見えないんだよ。そして兄さんに関しては、そう、怖がりだから」
 返した声は少し掠れた。聖司は楽しそうに笑って「知ってるよ」と答えた。
「おまえが安心するまでおれを閉じ込めておけばいい。逃げないって言っただろ? そのあいだにおれはもっと料理を覚えるよ。おまえより上手になったらどうしような?」
 先ほどよりも強い、そして先ほどまでとは種類の異なる息苦しさを覚えて戸惑った。不安や恐怖というよりも、身に迫るただ純粋な幸福感によるものだった。
 罪であるとか間違いだとか、この男はすべてを理解していてなお自分を愛しているのだろう。自分が彼を愛しているのと同じように自分を愛している。
 その真っ直ぐな、芯の強さに焦がれ続けてきたのだ。
 いま彼の芯は自分への想いだ。それが、泣きたいくらいにしあわせだと思う。
 餌を食べ終えたシロがにゃんにゃんと鳴きながら聖司の足元にまとわりついた。身を屈めて指先であやす彼の表情はやはりひどく優しい。
 目の前に彼がいて、小さな猫と遊んでいる。
 この部屋はあたたかい。ずっと欲しかったものは確かにここにある。ならばどれだけ歪んでいようが、罪で あろうが間違いだろうが構わない。
 この切実なしあわせが、明日も明後日も、命果てるまで続きますように。